2016年01月22日

《 米子市内の学校27校で…  平成26年度 》





《 米子市人権教育基本方針・米子市人権教育推進プラン(改訂版) 》という記事を以前書いた。

この米子市人権教育基本方針・米子市人権教育推進プラン(改訂版)の中には、
『 学校における国際理解教育の推進として、在日コリアンへの偏見や差別意識を解消するために、在日コリアンに関する歴史的・社会的経緯を理解する学習を推進します。(学校教育課・人権政策課) 』
…とある。


で、米子市学校教育課は平成26年度、米子市内の学校27校で在日コリアンに関する学習を実施したそうだ。

米子市のホームページ、米子市男女共同参画推進計画施策の実施状況(平成26年度)http://www.city.yonago.lg.jp/18415.htmのページに出ている実施状況一覧(http://www.city.yonago.lg.jp/secure/22699/26jisshijoukyou.pdf)に書かれてある。

画像はそちらのPDFから切り抜き⇩
米子市男女共同参画推進計画施策の実施状況(平成26年度).jpg



この27校というのが高校を含めてなのか等詳しいことまで分からないが、27校は相当な数であろう。


在日コリアンに関する歴史的・社会的経緯を理解する学習、大いに結構だ。それが真実を学ぶ学習であれば。


僕も学習の一助になりたいので、過去記事から参考になりそうな資料を二つ再紹介する。


基礎的な知識としては「日韓併合」や「密航」や「終戦直後の事件」なんかで検索すれば、在日コリアンに関する歴史的・社会的経緯を大まかに理解できるだろう。

簡単に説明するとしてもかなりの文字数打ち込むことになり面倒くさいので、他のよくまとめられたサイトを探して読んで欲しい。



僕がここで紹介するのはまず、旧厚生省引き揚げ援護局文書 P277-279だ。これは学習に役立つ資料であろう。

鳥取市が誇る行動する保守の雄(ゆう)中村哲司様が、県立図書館に在る資料を許可を得てコピーし作成したPDF。
…を譲って頂いたもの。感謝!
PDFはこちら⇒ 厚生省引き揚げ援護局文書 277-279 p.pdf

長いけど、これの本文も貼っておきます⇩。



第十章
1 北朝鮮帰還事業の経緯

1正規引揚げにおける帰還状況

(1)終戦当初の帰国

終戦直前日本には200万近くの朝鮮人が住んでいたことは、内務省の統計に明らかにされている。すなわち、同統計によれぱ、昭和十九年末における在日朝鮮人の数は1,936,843人で、そのうち約100万人は昭和十四年以降に増加している。法務省の資料によれば、100万人のうち、約70万人は自ら、日本内地に職を求めてきた個別渡航者と出生による自然増加によるものであり、残りの約30万人の大部分は、工鉱業、土木事業等による募集に応じて、自由契約にもとづぎ内地に渡来したものである。朝鮮に対する国民へ徴用令の適用は、昭和十九年九月から行なわれ、これにもとづき昭和二十年三月までの間に、いわゆる朝鮮人徴用労務者が日本内地に導入されたが、その数は極く少数であった。これら朝鮮人の大部分は、終戦直後の大混乱期である昭和二十年八月から翌年の初めにかけて帰国した。

昭和二十年八月はじめ、約五千人の朝鮮人は空襲を逃れて朝鮮へ疎開帰還するため下関に集結していた状態であったが、終戦となるや、日本国内各地の朝鮮人は祖国への帰還をいそぎ、関門方面をはじめ西日本の各港へ殺到し、朝鮮から引き揚げてくる日本人をのせた便船の帰り船等を利用して、多数帰還した。一方、これに乗りおくれた者は毎日のごとく関係当局に抗議を行ない、紛争が各地において発生した。

この間、政府としても、占領軍の指示もあって、臨時列車の編成、車両の増結、輸送費の負担、乗船地にお:る援護等、計画輸送による帰遠への努力を行ない、集団移人労務者及び復員者を優先的に計画輸送することとし、まず昭和三十年九月初頭には興安丸・徳寿丸が釜山航路に就航した。しかしながら、朝鮮人の帰国熱は輸送計画を上廻り、仙崎、博多、下関等に数万の滞留者がでるに至ったので、さらに雲仙丸、白竜丸、長白丸、黄金丸、会寧丸、間宮丸、大隅丸、その他海軍の艦船が、この輸送輸送にあたった。

かくて、朝鮮人の帰還は終戦からはじまって翌年までの間に奔流のごとく行なわれ、昭和二十一午三月末日までに統計上に現われた帰還者数は914,352人となっている。しかし、このほか現実の渡航者数としては、正規外帰還者約40万人を加算すべきことが韓国側の統計によって推測されるので、合計130万人以上の者がこの間に帰還したものと推定される。

(2)登録による正規引揚げ
ついで、政府は連合国軍の指令に基づき、昭和二十一年三月十八日、朝鮮人、中国人、台湾省民等の一斉登録を実施し、これにより帰還希望者の数を把握して計画輸送を行なうこととした。これによる登録の結果は次のとおりである。
全在日朝鮮人 647,006人
この右のうち帰還希望者 514,060人
この右のうち北朝鮮帰還希望者 9,701人


この一斉登録の結果にもとづき、南朝鮮への帰還希望者は博多と仙崎において乗船し、昭和二十年五月五日以後は毎日四千名を送出し、九月末には帰還希望者全員の送還を終了する予定であったが、帰還者数は予定人員をはるかに下廻り、出港地へ集まる朝鮮人は予定十分の一にもみたなかった。これは、朝鮮での新生活の地盤を確保することの困難なため日本へ密航してきた者から、朝鮮内の実情を聞いて、帰還を思いとどまる朝鮮人が多かったことによるもののようである。六月から八月にかけては朝鮮国内にコレラの流行と大洪水があり、十月には朝鮮鉄道のストライキがあって、連合国軍総司令部と日本政府の懸命な努力にもかかわらず、計画帰還による船の運航は、たびたびの欠航により、帰還は、いよいよ低調となり、十月以後持帰り荷物の制限を大幅にゆるめたが効果なく、三たび期限期日を延期したが、昭和二十一年十二月二十八日までに帰還した者は、博多、仙崎、佐世保を合せて82,900名で、三月の希望登録数の」十六%にすぎなかった。

連合国軍総司令部は、「帰還を希望する者は日本政府が指示する時期に出発しなければならない。さもないと日本政府の費用による帰還の特権は失なわれ、商業輸送の便宜の可能となるまで待たなければならない。」と警告し、日本政府もまた、帰国希望者洩れのないよう周知徹底を図り、この機会を逸しては、日本政府の責任と経費による帰国ができなくなることを警告していたのであるが、現実の帰還は低調のまま、昭和二十一年十ニ月終締するに至った。ここで計画輸送は一応終ったこととなったが、その後も、帰還希望者は個人的に審査を受けて佐世保引揚援護局から輸送が行なわれ、昭和二十二年から同二十五年までに約17,000人が南朝鮮に帰国した。

(3)北朝鮮への帰還と送出引揚援護の終結

一方、北朝鮮への帰還は昭和二十一年十二月十九日締結の米ソ協定により、「日本より北朝鮮へ引揚げるものは、かつて北緯三十八度以北に居住し、かつ、同地域で出生した朝鮮人一万人とする」こととされ、さらに連合国軍総司令部は、「日本にいる北朝鮮人一万人以内の引揚げは、一九四六年(昭和二十一年)三月九日から十五日までに実施される。この一万人は北緯三十八度以北の朝鮮に生れたことを条件として、一九四六年三月十八日付で帰国希望を登録した9,701名の朝鮮人及び北朝鮮に生れ、かっ、三月十八日付で登録しなかったもの、又は、その後に意思を変更した帰国希望者その他の朝鮮人を含む」とし、さらに、「帰国申請者の総数が一万人をこえるときは、そのこえる人数の引揚交渉を得しめるため、一九四七年二月二十八日までに連合国軍最高司令官に通告すること」と発表した。


しかし、北朝鮮帰国希望者の調査結果は、わずかに1,413人であって、さらに実際に帰還した者は三月十五日、大安丸で233人、六月二十六日、信洋丸で118人、合計351人が、佐世保から興南に帰還し、北朝鮮への帰還は終了している口なお、南朝鮮への帰還の終末については、昭和二十五年五月一日、佐世保引揚援護局が開局となったことに伴ない、当時、佐世保に収容されていた帰還者627名は新しく送出引揚援護局に指定された舞鶴に移送され、六月二十六日舞鶴からの第一船が釜山むけ出港する予定となっていた。ところが、突然、朝鮮には、十八度線の動乱が勃発し、その出港は中止された。これらの者は連合国軍の指令により帰還をやめて、居住地に帰ることとなり、十月末に至り、全員が舞鶴から居住地へ復帰した。かくて昭和二十五年十一月九日、連合国軍総司部は、「本日以降、非日本人の自発的引揚は本人の責任である。」むね日本政府に覚書を発し、これに基づき日本政府は、その送出援護業務を終丁した。

(4)在日朝鮮人の自己意思による日本残留
以上述べたごとく、在日朝鮮人は、日本政府から、「この機会を逸しては日本政府の負担による帰還の特権は失なわれ、将来商業輸送が可能となるまで待たねばならない。」と再三警告を受けており、また帰国希望者の登録後において帰国を取止めたものであるから、少数の例外を除いて、日本政府の負担による帰還の特権を喪失した者」といえよう。


当時、連合国軍総司令部としても、在日朝鮮人が朝鮮に帰還するか、日本に残留するかの選択については、全く個人の自由意思に委せる方針をとったことは確実であり、さらに、ソ連地区に関する米ソ協定においては、北朝鮮への帰国者数を一万名と予定していたにもかかわらず、北朝鮮出身者も日本に残留を希望したのが実態である。ただ南北戦争の勃発によって、舞鶴の集結を解き、各地に分散復帰し、止むなく帰国を中止した六二七名については、その意志に反して日本に残留を余儀なくされたものと言えるが、その他の約六十万の在日朝鮮人は、そのすべてが自己意思によって日本に留まることを選んだものであり、明らかに、日本政府の負担による帰国の特権を自ら放棄喪失したものと言うことができる。







次に紹介するのは、鳥取県警察誌 第一巻 第9章 第1節 P1132〜P1134。

鳥取県でも在日朝鮮人が暴れていたことが分かる記述だ。

引用以下より―


終戦直後の外国人は「戦勝国だ」、「独立国だ」という意識が強く、わが国の法律に従う必要はないとして、戦時中の抑圧に対する報復意識も手伝って横暴を極める朝鮮人・台湾人が多かった。
事実、右の事件(※)処理でもわかるとおり、在留外国人の不法行為の処理については曖昧であったため、警察官の取締り態度も消極的になりがちで、そのことがまた在留外国人の集団的犯罪を助長することにもなった。

在留外国人の取締りについては各県ともに苦慮していたようであり、昭和20年11月和歌山県から内務省・終戦連絡事務所・和歌山駐屯米軍に対して照会した記録があるが、それによると翌21年1月11日、進駐軍から「日本在留の支那人・朝鮮人・台湾人は日本人同様に取扱うこと」との指示がなされている。

本県でも、前述の台湾人の事件の教訓として、彼等の不法行為による跳梁跋扈を許すことは警察の威信を失墜し、ひいては民主の安寧を期することはできないとして、進駐軍に照会した。
これに対して昭和21年1月24日、オスボン少佐から和歌山県と同様の回答があった。
(注)既述のとおり、オスボン少佐以下の進駐軍一行は昭和20年11月15日任務を終了して離鳥しているので、この時期同少佐からの回答があったとすることについては疑問が残るところであるが、これについては後考を待ちたい。

この回答を得た警察部では、同日各警察署に対して、

「朝鮮・台湾・支那人ノ取扱ニ就テハ従来曖昧ナリシガ、今回進駐軍ノ命ニ依リ従来通リ、而シテ日本人同様取扱ヒテ差支ヘナキ旨アリタルニ付、今後可然処置相成度。
尚報告ハ厳重励行」
(若桜警察署『司法事務往復文書綴』鳥取県警察本部蔵)

と電話指示した。
そして、同月30日には「内地在住東洋人ノ取扱ニ関スル件」(発刑第六九号)を通牒している。
この資料は残存しないが、前述のオスボン少佐の回答に基づく詳細な処理要領を示したものと思われる。

ここで本県の在留外国人の状況について若干述べておこう。
昭和20年8月31日現在、鳥取県内に在留した外国人は、中華民国ニ九名・朝鮮一一、一0一名・台湾一五名・ドイツ一名計一一、一四六名であって、朝鮮人がほとんどであった。(『連合軍接収文書』写)

このため、朝鮮人をめぐるトラブルが最も多く、朝鮮人の不法行為の取締りをめぐって警察官と朝鮮人との争いとなり、事案の拡大を避けるためやむなく退職することになった警察官もあった。
また、一般人と朝鮮人をめぐる争いの特異なものとして、昭和20年12月23日、米子市朝日座で開催された「米子地方人民会連盟結成大会」において、聴衆として出席した米子市議の一人が、
「今次戦ガ、日本ガ敗戦ニナッタノヲ内地ニ居テ喜ンダモノガアルトスルナラバ、ソレハ一部ノスパイト朝鮮人ダ」
と言ったことに対して「朝鮮人を侮辱するものだ」と朝鮮人連盟が陳謝と市議の辞職を求め、旬日にわたって両者が対立し、一時は険悪な情勢となった。
しかし、駐留軍情報官の介入、市議会議長・県議等の介入もあって、1月8日該市議が「演説会における発言が一般朝鮮人に国際的刺激を醸すが如きことありとせば遺憾とす」との声明を出すことで妥協するという事案があった。



※台湾人の警察署襲撃事件
昭和21年(1946)1月、台湾人11名が黒坂警察署を襲い、闇米の証拠品返還と在留中の被害者の釈放を要求した事件。






posted by 前田 at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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